5章 無心と平安、直感、技術、教育

 

無心と平安

幸せと苦しみは表裏一体

人間誰もが不幸せより幸せになりたいと思っている。そして多くの場合、何かを得ることでそれが叶えられると信じている。例えば「お金をたくさん稼げばあれもこれも買え、幸せになれる」「事業で成功すれば幸せになれる」「あの異性と付き合えれば幸せになれる」など。

例えば気になる異性と付き合うことになり、始めは嬉しい気持ちで一杯になっても、時間が経つと次第にその感情が薄れ、場合によってはケンカが多くなり、苦しくなり、別れに至ることがある。付き合う前には相手を所有したい欲望が生まれ、それが付き合うことで喜びや幸せに変わり、別れ際には苦しみがやってくる、という過程を経る。

ここで大事なことは、どんな外部的な事柄も、得て満たされるのは自分の中の所有欲や自己顕示欲(けんじよく)であり、そこで得られる喜びや幸せは長続きせず、もっと欲しくなり、やがて苦しみに変わるということで、それに囚われているうちは、幸せと苦しみのサイクルを延々と繰り返す。幸せと苦しみは表裏一体の関係にある。しかし人間は、苦しむより幸せになりたいと思っているわけで、その答えはどこにあるのか。その答えは幸せと苦しみの両極端の間の「無心」にある。無心に、平安、安らぎ、静寂、平和がある。ここで無心を理解するために、次の簡単な方法を行ってみる。


「方法① 松果体(しょうかたい)に意識を向ける」

椅子に座ってでも胡座(あぐら)を組んでも良いので背筋を伸ばして座り、20秒間目を閉じる。その中でもし頭に何か考えが浮かんできたら、それが思考。そこから苦しみが生み出される。

次にもう一度20秒間目を閉じてみる。今回はゆっくり息を吸って吐き、眼球裏の松果体(しょうかたい)に意識を向ける。すると思考が止み、無になる。つまり意識的に思考を止めた。松果体(しょうかたい)から額(ひたい)の裏までの間は思考が浮かんでくる場所で、ここに過去の出来事や未来の予測や不安が勝手に浮かんでくる。無思考状態になると、静寂が訪れる。つまり思考の勝手なお喋りがなくなり、苦しむことも減る。あとは一日中、この意識的な注意を続ける。継続していけば脳内が常時静かになり、思考が起こっても、すぐそれに気づき沈めることができるように習慣化される。また目を開けて無心になることに慣れたほうが、歩いている時や会話時などに、無心になろうと気づくことが多くなる。

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これらは意識的に注意深い状態にあるということ。これと反対が無意識の状態。誰でも怒ったり興奮した時、感情のまま人に対して失礼なことを言ったりする経験があるが、それは無意識の状態で注意深くないから起こる。今行ったように意識的に内面を観ている時は、注意深い状態なので感情のまま話すことがなくなる。

この松果体に意識を向けるのは一つの方法で、対象はなんでも良い。例えば流れる雲を見つめる、呼吸に意識を向ける、木々が揺れるのを眺めるなど。ただテレビや動画のように、情報がすり込まれるような物は避けたほうが良い。


思考が全ての苦しみを生み出す

これらは瞑想をしているわけだが、これを毎日繰り返していくと、思考に頭が占められた時も、それに気づくようになる。こうして一日の中で頭の中の無を維持できる時間が増えるごとに、思考が生み出す苦しみは減っていき、止んでいることが習慣化されてくる。

この方法で一つ大事なことに気づける。頭を無(む)にしていても勝手に思考が始まり、過去を思い出し始めたりして、怒りや悲しみの感情が沸き起こる。ほとんどの人間はこういったことを知らず、勝手に起こる思考に感情が振り回され、怒ったり悲しんだりして苦しむこととなっている。しかしこういった思考が起こった時も「これは一時的なものだ。無に帰れば思考も苦しみも止む」と知って無を維持すれば、いつでも平安な状態、静寂の状態、落ち着いた状態にとどまれる。

この無心で理解できることは、人間は心の平安を内面の無に見いだせるということ。一般的な価値観である何かを得たり達成したりして得られる幸せ、喜びは一時的で、時間が経てばその幸せは薄れ、再び欲望が現れ、それが執着となり、苦しみが始まる。幸せと苦しみは表裏一体で交代にやってくる。そこに平安はない。永続的な平安は心を無にした時にだけ得られ、それは思考を止めるだけで、今すぐにできる。思考が頭を占め、何かに執着するほど苦しみが生まれるので、その過程をよく観察し、その気づきを得ていけば、より簡単に頭に刷り込まれた苦しみを生み出す思考パターンから抜け出しやすくなる。

誰の人生も生まれてからずっと、大なり小なり苦しみが連続している。 人間にエゴ(自我)がある以上、人生の本質は苦しみと言えるが、それを松果体(しょうかたい)の一点に意識を集中させ頭を無にすることで、苦しみを溶かしていくことができる。

幼稚園児の時は思考力がそこまで発達していないので、悩み事も少なく、常に楽しそうに過ごせる。怒られてもケンカしても、10分もすれば何事もなかったかのように過ごす。15歳前後の第二次成長期を過ぎると体つきが大人になり、エゴ(自我)も強くなり、思考力も高まってくる。するとその分、悩み、苦しみ、争いが増えてくる。

思考を止め、無になるというのは何もせずにじっとしている時もあれば、無我夢中で何かをしていることもある。ただ頭を無にしていると、そこに直感が入ってくるので、あとはそれに身を任せるだけとなる。思考を使うことが悪いことではなく、何か計画を立てたりする時は使わなければならない。それ以外の時は思考を沈めておく。これを知らない人は勝手に起こる思考に振り回されて行動する。

無思考を維持するのに生活環境を変える必要はなく、仕事などを続けていても問題ない。こうして日常生活を送りながらでも無心を保てるようになる。この無と対極にある人ほど、常に頭は思考に占められ、エゴが強いということ。エゴが強いということは怒りや執着心が強く、人間関係も攻撃的になり、不公平な判断を下す傾向にある。そして常に破壊的な方向へ物事が進む。


人生の目的

欲望から行動するとき、そこには常に人間関係などで問題がつきまとう。その問題は新たな問題を作り出す。しかし無欲で執着のない人間は問題を作り出すことがなく、仮に問題が起こっても執着心がないのでそれを悪化させることがなく、反対に収束させる。つまり無心を維持する人間の内面には平和、平安が訪れる。それが人間の人生で果たさなければならないことであり、苦しみの連鎖から抜け出すということ。

日常生活で自分の身の回りに起こる問題や人間関係は、実は自分の思考からくる行動と発言が作り出したもので、無心になり沈黙すれば問題がなくなり、問題が起こったとしてもそれを問題とみなさず悪化させない。例えば苦手な人に出会った時に、頭で苦手と考えていると相手にそれがいつの間にか伝わっていることがある。苦手だと思ってもすぐに気づいて無心になると、その後人間関係が悪化しない。


○直感

シータ波

瞑想をすると脳波にシータ波が見られることは科学的に確認されている。このシータ波の時、人間は直感を得る。そして何らかの技術でそれを表現する。直感、閃き、アイデア、インスピレーションなど呼び名は様々であっても、これら大本はすべて同じで、すべては頭の中で気づくことから始まる。これを具体的に理解するためにまず脳波の状態から見ていく。

人間の脳波はネガティブな状態から良い状態へ向かって順に、γ(ガンマ)、β(ベータ)、α(アルファ)、θ(シータ)、δ(デルタ)に分けられる。ガンマ波はイライラしているときに出る脳波、ベータ波は普段の脳波、アルファ波はリラックスしているとき、シータはうとうとしているとき、デルタ波は熟睡しているときの脳波で、シータ波は覚醒シータ波とも呼ばれ、集中したときに発生する波長でもある。この脳波は人間のインスピレーションや閃きを促進する効果があり、直感にはこのシータ波が重要となる。

脳波がシータ波の状態の時、人間は良いアイデアが浮かぶ。またはアイデアが降ってくるというのはこの状態からを指す。一般的にシータ波の状態とは難しく聞こえるが、誰もが経験している状態である。何か好きなことに夢中な状態や没頭している瞬間はシータ波の状態にあることが多く、瞑想もシータ波の状態になりやすい。


考え尽くして無心になる

そして何かに取り組めば深く思考することも増える。思考している時、無理に答えを探し出そうとしていることがあり、無理に考えだしたアイデアは後から見れば良くなかったということが多い。直感は自然と頭に浮かぶので無理に探し出すものではない。ただ考えようとしなくても考えてしまう時は、とことん考えたほうが良い。

その後、気分転換が必要になるが、これは考えつくした後でということが前提になる。この考え尽くすというのは、脳が実際にねじれているような感覚に達するまで、もしくはもう探求する要素がないというところまでを指すが、自分の中に探求できる要素が残っている場合は、本当に必要な閃きを得ることはできない。常に自分の思考や知識の限界に達する必要があり、そこまで思考・探求して気分転換をすると限界を超えるための閃きに気づく。

気分転換の方法は人それぞれだが、寝るという行為には大きな効果がある。頭へ大量の情報を流し込み、探求し、脳が処理できなくなる、または疲れたというところで寝る。寝ることにより頭の中が整理され、起床後フッと解決策が浮かんでいる。こういったことは脳の1つの習性だが、これに気づき活用する人は休憩前や1日の終わりに次に取り組む問題を頭に詰める。そうすれば休憩後や一晩寝ることでアイデアが浮かぶ。寝る時間は15分でも1時間でも良い。寝るという行為は一般的に非生産的で不真面目な行為と思われてしまうが、直感を得るという観点から見れば事実は反対となる。シャワーを浴びる瞬間に頭が無になってアイデアが浮かぶということもあるが、気分転換や寝ることなど1度頭に無の時間を設ければ、無になった空間に直感が入ってくる。

無心になるには、誰にも邪魔されず1人になる時間、孤独、暇な時間が必要になる。孤独とは一般的には寂しいもの、友達がいなくて虚しいものなど、ネガティブな印象を持たれることが多いが、直感を得たり、内観して精神面を向上させるには孤独が適している。


直感に身を委ねると最大能力が発揮される

直感を掴むとはとても単純な行為であり、考え出すというよりも頭に浮かんだものに気づき、それに素直に従うだけとなる。直感は完璧なものであって、それは一瞬にして頭の中に用意されている。

スポーツなどでも直感的に体が動いたプレーというのは素晴らしいプレーが多い。そのプレーの一瞬前に「こうするべき」という閃きがあり、それを実行すると必ず良い結果になる。実行するというよりは自然と体が動いたという表現が近い。物作りにおいても無心で出来たものには良いものが多い。直感に従った行動や生き方というのは良い結果を生み、それは人間を含め生物の本質的な生き方であり、本来持つ能力が最大限に発揮される生き方でもある。つまり無心になるとは静かに何もしないということでもあり、その中で直感によって自然な流れに身を任せて行動するということでもある。

取り組む事柄がその人に適していれば普通の人より直感が得やすくなり、自然と行動に自信が溢れ、堂々とし、魅力的になる。つまり天職、適職である。しかしこういった人が他のことをすれば普通の人になる。つまり誰でも得意なことを見つければ驚くような力を発揮することができ、何が向いているのか自己探求すれば良いわけで、子供のように好奇心が湧けば取り組んでみると、天職は見つかりやすくなる。

直感は人間に対してこれまでになかった組み合わせを提示する。ある動きと動きの新たな組み合わせが新しい技を生み出し、これまで人間が気づかなかった自然現象を発見することで新たな発明が生まれ、新しい音階と楽器の組み合わせが新しいメロディーを生み出す。しかしすべての要素素材は元々世の中に存在していたわけで、人間がそれを知覚して組み合わせるに至っただけである。つまり世界は完璧だが人間の思考が生み出す常識や固定観念がそれを認識させる目を曇らせ、組み合わせることを邪魔する。そして無心から得られる直感が真実を気づかせる。つまり常識ではなく直感的な行為が人間の本質となる。常識的にはこうしなければならないが直感はそれに反している場合、最終的には直感に従えば良い結果を得ることになる。


○技術

シナプス

直感を活かすためには多くの場合技術が必要になるが、次に技術的に上達するということは体の中で何がどうなっているのかを見ていく。人間の脳には多くの神経細胞が詰まっており、この間を微弱な電流が流れることで情報が伝達する。神経細胞をつなぐ組織にシナプスというものがあるが、このシナプスは良く使う部分は太く、あまり使わない部分は細くなり、やがて切断する。脳神経をつなぐシナプスを太くしていくと電気の流れがスムーズになり、勉強においては答えが早く出せるようになり、運動においては動きがスムーズになる。このシナプスを太くする方法は反復練習にある。

反復練習というのは1度覚えたことを何度も繰り返し行う。計算問題などの場合、同じ問題を何度もやるのではなく、同じような問題を簡単なものから難しい問題へと順に解いていく。もし分からなくなったら分かるところまで戻る。この反復を繰り返していると徐々に問題が早く解けるようになる。これは脳神経をつなぐシナプスが太くなってきた証拠で、このように反復練習を繰り返すことで脳の働きは良くなり、頭が良くなっていく。楽器が上手く弾けるようになるというのは脳の指令をシナプスが受け、電気信号を腕や指に伝える。筋肉はその信号に反応して動く。このシナプスは数が多いほどよく、有効なシナプスを増やすには毎日同じフレーズを反復練習するしか方法はない。興味のないことの反復練習は苦しいものとなるが、好きなことであれば練習も楽しいものとなる。

そしてひとたび脳細胞→シナプス→筋肉の経路が確立すれば、1週間あるいは1ヶ月弾かなくても、そのフレーズが弾けるようになる。これを長期記憶と呼ぶ。シナプスの数が多ければ、脳細胞からの信号をいくつもの経路を経て筋肉に伝えることができるので、正確に早く信号を送ることが出来ると同時に、腕や指の動きも滑らかになる。複雑で高度な技を披露する上級者は、長年の反復練習によって長期記憶にまで達しシナプスが太く多くなっているわけで、そこにたどり着くまでには長期間の取り組みがあったということになる。上達には反復練習以外に道はなく、長期的に取り組めることは好きなこと興味のあることで近道はない。


基礎と応用

このように成長するというのは反復によってシナプスが太くなり、脳から筋肉まで大量の情報を伝えることが可能になるということだが、ただ反復が重要といってもまず着目すべきは基礎技術の反復にある。基礎技術というのは単調で退屈なイメージを持たれがちだが、この基礎をどこまでも反復することによって高度な応用技術が容易に行えるようになる。様々な上級者の技は素人や初心者から見れば複雑で、とても真似できないものに見えがちだが、それらを分解すれば基礎的な技術の組み合わせで成り立っている。つまり基礎技術が認識できるまで分解し、あとはその基礎技術単体で反復練習すれば、その基礎技術を2つ3つと組み合わせるだけで応用技になり、簡単に習得できるようになる。このようにすると基礎技術と基礎技術をつなぐ動作は自然と身につく。上級者は長年の取り組みによって基礎技術が向上し、それらの組み合わせによって応用技術を可能としているので、初心者が応用技術ばかり練習して出来なかったからといって才能がないわけではなく、取り組む順序を見直す必要がある。

誰でも初心者から上級者へ向かうが、初心者が心がけるべきことは最小のものから取り組み、慣れとともに最大のものへ進んでいくということで、例えば動作に関することであれば基礎技術から取り組み始める。速さから求めるのではなく、遅く確実から速く確実へ進む。物づくりにおいては短時間で完成できるものから取り組む。少ない作業量のものから取り組むと、小さな成功の連続によって常に達成感を感じることになるので、楽しみながら続けることができる。

そしてどんなことに取り組んでいても、反復を繰り返しているうちに成長を感じなくなる時や、才能がないと感じるときが訪れる。人間は均一に右肩上がりには成長しない。人間の成長は「やや右上がり→少し下がる→急激に右上がり」を繰り返す。これは1日の取り組みの中においても、長期的に見ても同じ。楽器やスポーツの基礎技術は非常に単純な動作だが、同じ動作を30分から1時間繰り返すと失敗が増えてくる。体が疲れてくると同時に感覚が麻痺してくるような状態だが、これを人によっては調子が悪くなったと言い表すこともある。こうなれば一旦休憩する。この休憩の間に頭の中が整理され、体やシナプスが調整され、再び練習を再開すると休憩前よりスムーズに行えるようになる。ただこれは1日のなかにおいての取り組みなので体は疲れ、動きの精度は下がり続ける。これを数日間繰り返して行うと一定期間調子が悪くなる時期が訪れるが、それが過ぎれば大きな成長を感じることになる。基本的にはこの繰り返しで長期記憶まで達する。反復を繰り返して体が動きを覚えることが長期記憶なので、質の低い長期記憶から質の高い長期記憶まで人それぞれとなる。

質の高い長期記憶に達すると、考えなくても体が動くようになるので心に余裕が生まれる。その余裕の分だけ心が落着き、直感に気づきやすくなり、アイデアが生まれやすくなる。例えばこういったことをサッカーを例に考えてみる。

初心者が足でボールを止める時、頭は止めることで精一杯になるが、中級者になれば周囲の状況を確認してからボールを正確に止める。そして上級者は周囲の状況を確認し、止めることと相手のゴールへ向かうドリブルの1歩目を同時に行う。さらに上級者になると周囲の状況を確認し、止めることと相手のゴールへ向かう1歩目で相手1人を抜く。

これは1つの例だが、ボールを止めるという基礎技術がどこまでも高まればそれだけ余裕が生まれ、1つの技術から発展した数多くの発想が生まれる。さらにスピードや正確性も増す。あらゆる上級者は基礎レベルが高く、初心者は基礎レベルが低い。上級者同士の基礎レベルにも差があり、結果それらを組み合わせた応用技術、スピード、判断力、余裕に差が生まれ、全体のレベルが違ってくる。

ただ基礎の反復と合わせて考えるべきことは、スポーツが好きなら試合をすることから、楽器をするなら好きな曲で簡単なものから、料理を覚えたければ今すぐ食べたくて調理が簡単なものから、デザインをしたければ好きなデザインで技術的にも簡単なものを作ることから、外国語であれば辞書の「A」から「Z」を覚えるのではなく、日常会話でよく使われる言葉から取り組むことが重要となる。

今求めている事柄やすぐに役立つ事柄から行うことでまずその満足感を得ることができ、意欲の継続につながる。自分の好奇心を第1優先にして取り組む順序を決定すると、最も自然で最善に物事が進む。多くの場合3年以上続けなければ自分の独自性を確立するに至らないが、好奇心を優先せず参考書の1ページ目から取り組むようなやり方は、楽しみを感じながら取り組むという要素を大幅に減らしているので道半ばにして飽きてしまうことが多い。これは現在の学校や会社で行われる本人の好奇心とは関係ない教育方法にみられるが、反対に遊びとなると誰でもしたいことを真っ先に行うので常に楽しく、よって継続でき、気づけば成長している。どんなことも成長の過程は同じであり、まとめると次のようになる。

1、興味のあることを見つける
2、実践を行う
3、楽しければ、簡単な実践でよく使用される基礎技術や知識から反復し、実践にも取り組む

これを繰り返すだけとなる。これを繰り返していると他者の取り組みも参考としてよく観察するようになり、深く考え、洞察力、分析力、想像力が高まり、シナプスも太く多くなっていき、頭も良くなっていく。また小さな成功体験を重ねていけるので楽しくなり、それをしながら技術や知識の幅を広げていく。これが結果を出しながら成功体験を重ね成長していく道筋となる。

こういったことが理解できると、現実の生活には無駄が多いことが見えてくる。例えば語学学校の年間授業料は20万円から100万円と多様に存在するが、20万円より100万円出すほうが自分に対して良い教育をしてくれ、上達も早そうに思える。そういった面は確かにあるが、しかし外国語を話せるようになるには自分で話す以外上手くなる道はなく、100万円払い良い先生がいて安心感はあるが、20万円の5倍早く喋られるようになるわけではない。とにかく会話をしてシナプスを太く多くし、頭で単語を変換せずとも自然と言葉がでてくるまで反復を繰り返すだけとなる。つまり本人の学びたいという意欲と反復だけとなる。2、3日に1回やたまに取り組むというペースではなく、好奇心がある間に毎日集中して取り組んで長期記憶まで達することが重要であり、成長は練習量に比例する。あとはその個人の生まれもった才能、性格、環境によって伸びる部分や上達期間に差がでてくる。

上達や成長は現代の教育のように知識を詰め込むことではなく実作業と共にあり、取り組む順序は自分の好奇心を優先し、実践と簡単な基礎技術や知識の反復を同時に行っていくことが重要となる。


シナプスが育つ目安時間

例えば踊りの簡単なステップ、打楽器の短いリズム、サッカーのシザース(またぎフェイント)など、技術的に最小の動きがある。0からこれらの1つに取り組んだ場合、1日30分練習を繰り返すと、2週間ほどで体がその動きを覚え始めるが、まだぎこちないレベル。3ヶ月目には考えなくても自然と体が滑らかに動くようになり、質が高いとは言えないが素人っぽさはなくなる。この3ヶ月目までに2つ3つと他の基礎技術も練習していれば、それらの複合技もできるようになる。ただこれもやっと体がその動きをできるようになった段階。これはシナプスが育つ短い時間の目安の一つ。

あとは高い集中力を維持できる練習時間で、自主練習として自分の動きや結果を自己分析し、修正し、反復し、新しいことにもチャレンジし続けることを年単位で続けていくほどレベルが上がる。そのため、本当に好きなことしか高い意識を持続することができない。

シナプスは年齢は関係なく何歳でも上達する。ただ運動と同じで、若い時から高齢になるまで運動し続けている人は、高齢で新しい動きを学んでも体がすぐに順応できる準備ができている。反対に高齢になって突然運動を始めても、体に土台がないので時間がかかる。これは頭を使うことでも同じ。


記憶

興味があることを優先して学ぶことは知識の習得にも良い効果がある。人間は自ら望んで得た知識は長期的にしっかりと保持でき、興味はないがとりあえず学んだ知識はすぐに忘れる。仕事、出来事、人物などどんな対象においても自分が興味を持って調べるとその知識が長期にわたって保持され、学校のテスト勉強のようにおおよそ興味がないことは、テスト後すぐに忘れる。

記憶の際にも実践を優先して行っていくと、次に覚える必要のある知識や取り組むべき事柄が自然と見えてくる。つまり覚えようとすることから始めるのではなく、実践の中で見えてくる覚える必要のある事柄を覚えるようにすると、それを覚えなければ取り組みが円滑に進まないので習得意欲が沸き、記憶しやすくなる。そのようにして進めていくとやがてその蓄積によってその取り組んでいる事柄における法則性が発見でき、それによってその事柄の全体像も理解できるようになる。全体像が把握できれば自分の現在地が分かるので次に取り組むべきことが明確になり、その分成長は加速する。


一人でまとめる

反復によって得た技術で直感を具現化し何かが完成するが、完成するものには質があり、質が高いとは調和がとれているということである。調和がとれているとはバランスが良く無駄がないことであり、そういった物を作り上げるには1人でまとめることが基本にある。無数の素材の中から数個を選び取ってまとめる作業を1人でこなすところに、隅から隅まで1つの個性でまとめられた無駄のないものが出来上がる。チームをまとめる監督は1人でなければ全体の方向性は定まらず、バンドのメンバーがただ一緒に曲を作れば個性がぶつかりあうので代表者が曲をまとめ上げる。反対に同じ画用紙に1人の絵描きが目の部分を描き、違う絵描きが口の部分を描いていけばまとまりのない人物画ができあがる。

素材と素材には相性があり、素材はあくまで全体を構成する一部であって、常に全体から見て素材の在り方を決めることが基本にある。最高の素材を集めれば最高のものが出来上がるというわけではなく、前に出る素材があれば後ろへ下がる素材が必要になる。素材の質は良いに越したことはないが、一部分の素材だけを見れば最高でなくても、結果として全体の調和につながることもある。つまり最終的な完成図を描いている者が相性を見極めることが重要となる。

自分が何かに取り組む場合、始めから最後までの工程を1人でまとめるところに、調和のとれた個性的な物が完成する。つまり他人の意見はあくまできっかけやヒントとして選択肢の中に置いておき、それが必要かどうかは最終的に自分で見定める。こういった作業も反復することによって見定める目が肥えていく。

2人で何かに取り組む場合も、1人がまとめ上げ、もう1人は自分の能力を惜しみなく提供する関係が基本になり、相手の選択肢が増えるようアイデアを提供する。この関係性は人数が増えても変わらない。つまりまとめ上げる人物の実力も経験値も高ければ、すべては問題なく進む。問題になる場合の多くは、まとめる人物の方向性が定まっていない時、実力が足りない時、そして周囲の人間が口を挟み過ぎる時となる。

また感性の良さは調和に直結する。感性を高めるには体験と観察が必要となる。体験することによってその事柄の細部までが理解できるようになり、その後他者の行動や作品を観察すると、体験から得た経験によって自分の事のように共感することができる。つまり他人の感性を参考にして自分の感性を知る。これを繰り返すと共感能力が高まり、物事を見る目が肥えていき、再び自分がその事柄に取り組んだ時はさらに細部まで意識が行き渡り、質を向上させることができる。自分を知るには他人が必要で、自分の感性を理解するには他人の感性を目安にすることが1つの方法となる。その繰り返しによって経験値が高まり、目が肥えていき、感性が高まり、質の良い選択ができるようになり、調和にもつながる。


極端な取り組み

世の中には物の見方が深く、平均的な人には見えない視点で物事を分析できる人がいる。こういった人は大体実力者だが、このタイプに共通しているのは極端な経験をしてきていること。だから物の見方が深くなる。平均的な人は何かに取り組んでも、そこそこの熱量、そこそこの集中力、そこそこの時間で取り組みが終わる。よって少しの苦しいことを経験し、少しの喜びも経験する。その分経験値も浅い。会社で言えば平社員にあたる。物の見方が深い人や実力者は、極端過ぎるほど取り組んだ過去がある。物凄い量の本を読む、物凄い数の作品を作る、物凄い時間練習する、物凄い時間観察する、物凄い働く、物凄い数の人に営業をするなど、一つのことに徹底的に、病的なほどに時間を割いて振り切れる。だから物凄い苦しんだこともあれば、物凄く得たこともある。よって物事の極(きょく)を知る。言い換えると1日24時間でできる物事の端(はじ)、人間の限界を知るので、0からその端までのことが理解できる。だから平均的な人には見えない部分や奥深さが見え、これぐらい集中して時間をかければこのレベルに達するというのが見えてくる。会社で言えば創業者に多い。

そして人間は自分の経験したことを話す時は言葉に力が乗るが、よって会話も魅力的になり発言に重みも増す。だから極を経験した実力者の話は面白く、平均的な人の話は深みがない。

平均的な取り組みしかしてこなかった人は、自分の子供や身近な人が極端な取り組みをしていた場合、それを不安に感じ、注意したりやめさせたりすることがある。極端な取り組みは健康を害する危険性がある。しかし反対の見方をすると、実力者へなるための必要な階段を登っている時でもある。

極端な取り組みは誰でもできる。ただそこには条件があり、自分がとことん熱中できる天職・適職に取り組んでいる時だけとなる。それを見つければ、自然と物凄い時間をかけて取り組むことになり、実力者に成長している。

極端なことをしているときはバランスを欠いている。しかしそれを一定程度続けるとコツをつかんでくる。するとその極端な事柄の効果的な部分だけを残しながら、手を抜くところとのバランスが取れるようになる。初心者から始める場合は質より量を求め、知識が増え、実力が高まり、全体像が見えてきたら見る目が肥えているので量より質に変わる。これらが個人では成功法則となり、組織では効果的な育成論や戦術となる。


核の要素から取り組み始める

物作りを行う時は目的を持って製作することが多いが、その場合、核となる要素から作り始めると比較的容易に無駄のない調和したものを作り出しやすくなる。核となる要素とはその製品の売りや特徴で、製品を構成する要素の中でも特に大きな影響力を持つ要素。身の回りを見渡すと目的を持って作られた製品で溢れており、それらは常に核となる要素を持っている。

例えばウェブ上の検索サイトは、検索結果の質そのものが売りとなるので検索機能が核の要素となる。早く走る車を作るなら第1にエンジンが、第2に形状が核の要素となる。座り心地の良い椅子を作るのであれば、形状や材質など肌に接する部分が核の要素となる。料理であれば多くの場合、第1に味が、第2に盛り付けが、第3に器が核の要素となる。

様々な製品は常に核の要素を中心に成り立っている。核となる要素が2つ3つの場合もあるが、目的を持って何かを作る場合、この核の要素から作り始めると調和したものを作り出しやすくなる。核の部分をある程度完成させるということは製品の大半を完成させたことになるので、その他の要素の特色を核の部分へ合わせるだけとなる。また完成品の質も完成前にある程度解り、完成までの日数も具体的になるので集中力を継続させやすくなる。さらに集団で取り組んでいる場合はチームのモチベーションの維持にもつながる。

この基本はとくに初心者が意識して行えば、完成品の質を高めることに役立つ。経験の浅い人間が陥りやすい取り組み方は、細かな部分から作り始めてしまうことによって全体のバランスがとれず、製作途中にその質の低さに気づき、意気消沈してしまうことにある。

例えば大掃除をする時、大抵の場合大きな家具を移動させてから隅々を掃除する。もし大きな家具を移動させず隅から掃除を始めてしまえば、掃除は一向に進んだ気がせず、後で大きな物を移動させると細かな塵が舞うので再び同じ場所を掃除することになり、終わりが見えず、時間と共にやる気を失う。反対に大きな物から片付けてしまえば掃除の大部分が片付いたことになり、あとは残りの小さな部分に必要な労力を注ぐだけになる。そしてある程度終了時間も計算できるので目標が明確になり、集中力を維持しやすくなる。つまり核の要素や影響力の大きい要素から取り組み始めると、進行状況の把握も容易になり、すべてが明確になる。

また製品などは常に見た目のデザインも重要だが、核の要素から作ると核のデザインにその他の要素のデザインを合わせるだけとなるので、全体の統一が容易になる。もし小さな部分から作り始めると、最終的には最も影響力のある核の部分に全体の色を統一する必要に迫られ、小さな部分のやり直しが必要になる。核となる要素から取り組み始めることを基本にしておけば、無駄が減り、調和が取りやすくなる。


干渉を控える

調和の取れたものは1人の人間がまとめることが基本になるが、つまりどんなことも自己責任で決定して取り組んでいくということになる。反対に他人には干渉しないことも基本になる。干渉された側は自己責任で取り組む姿勢を邪魔されることになるからである。

干渉する側にとっては助言や批評などの干渉があるが、善意があるかないかにかかわらず自己責任で取り組む人間に対して重要なことは、取り組んでいる本人が何を目標に取り組んでいるかを理解し、干渉は控えることにある。取り組んでいる本人にすれば、自分の目標を理解した上で必要な時に助言をしてほしいというのが本音であって、周囲がその目標を理解せず、安易に自分の価値観で助言や批評を行うことは善意があったとしても進歩の妨げになる。自分で考え、独自の解決方法を探し出し、その方法を確立していくことで人は成長していくので、周囲の人間は本人が助言を求めてくるまでは見守り、助言を求められれば自分なりの意見を述べる。このように取り組んでいる人間が没頭できるよう周囲が干渉しない環境を作ることが重要となる。

仮に助言をしようか迷った場合は、迷うことは直感的ではないので結果的には助言しないほうが良い。もし必要な助言であれば迷うことなく助言しているのでそれは直感的な行動と言え、直感と行動の間に迷うという思考が入れば直感ではない。


事前の頭の中のシミュレーション

人間は多くの場合、頭で想像してから行動するので、事前の想像やシミュレーションの段階でどれだけ完璧な図を描けているかが現実の結果としてそのまま現れる。初心者と上級者の違いは技術的なことから経験値まで様々だが、頭の中で工程を予測するシミュレーションにも大きな差がある。上級者は始めから終わりまでの工程を頭の中で具体的に描け、初心者はぼんやりとした想像図しか描けない。例えば多くの主婦は料理の調理手順が具体的に頭に入っているので、必要な食材からその調理手順まで想像通りに作業を行うことができ、よって市場に行く時間も具体的に決めることができ、想像した料理そのものを作り出すことができる。プロのスポーツインストラクターも、どれだけの筋力トレーニングを行えばどれだけの筋力が得られるのかを知っているので、具体的なトレーニング内容と日程を組むことができる。プロのウェブデザイナーやプログラマーも、製作前に頭の中である程度具体的な完成図が描けるので、後はそれをそのまま作り出すだけとなる。

上級者は長年の取り組みによって技術や経験が蓄積され、それによって何をすればどういった結果が得られるのかという現実を理解している。それらの経験を応用して事前に具体的なシミュレーションを行うことができ、想像と現実の差がないほどに、想像したものと同じ結果を得ることができる。反対に初心者の多くは頭の中でのシミュレーションが不十分なまま取り組むので、思いつきや行き当たりばったりになることが多く、結果的に無駄が多くなり、時間もかかり、質も下がる。ただこれは経験値が少ないので仕方がないこと。

重要なことは何をすればどういった結果が得られるのかという現実を1つずつ把握していくことであり、その繰り返しが現実的なシミュレーションを可能にする。つまり失敗すれば何故それは失敗になったのか原因を突き止め、成功するまで繰り返す。それを繰り返すことにより「こうすれば失敗する。しかしこうすれば成功する。」と現実を知ることになり、その繰り返しが具体的なシミュレーションを行える知識、経験値、想像力を養っていく。だからこそ結局は反復するしか道がない。

実力のない初心者ほど挑戦し失敗することを避けることが多い。そこには自分の能力のなさに直面する恐れがある。こういう時は「今回はこれをこのようにすればどういった結果になるのか実験してみる」という気持ちで挑戦すれば実験結果を見ることが目的になるので、失敗や成功は二の次になり、周りの目も気にせず始めやすくなる。

物事に取り組む際は、取り組む前に始めから終わりまでの工程を頭の中でシミュレーションする。それが具体的であるほど結果はその通りとなり、それが不十分であるほど結果もその通りとなる。具体的にシミュレーションできるほど上級者であり、曖昧であるほど初心者ということでもある。

人間の活動はすべて脳からの命令で始まり、想像がその始まりであって、常に自分の内面に目を向け、具体的な想像図を描き、シミュレーションを行う。多くの場合この状態はシータ波となっているが、これに時間を割き過ぎるということはなく、考えれば考えるほど現実の完成度も高くなる。


意識の高さ

天職・適職を手にした人物の取り組みを目安にすると、日々どれくらいの意識の高さで取り組めば最高の質のものが生まれるのかがわかりやすくなる。意識が高いとは言い換えると、気の緩みや隙がなく、純粋で真面目で、深い集中力、その集中の持続力、観察力、実行力が高いとも言える。

天職・適職を手にした人物は朝起きると、取り組む事柄が中心の生活が始まる。食生活の在り方から食べる時間、休憩する時間、寝る時間、余暇の使い方まですべてが取り組む事柄を中心に決定される。多くの場合生活は規則正しく、自分を律して過ごす。これは他人から見れば努力家と見られるが、本人からすればそうしたほうが良い結果につながり、成長にもつながるのでやりがいを感じている。つまり努力というよりはそうすることが自然で、前向きに取り組んでいるので生活も充実する。これは天職・適職に取り組んでいるからこそ出来る行動であって、朝から晩までそれの為に生き、休憩中もそれが頭の片隅にあり、予定のすべてがそれを中心に決定される。

つまり自分が現在取り組んでいる事柄がやがて最高のものへ進化するかどうかは、今現在の取り組み方を観察すればわかる。もし今日1日の大部分の時間を自主的に興味のある事柄に使い、目的を持って取り組み、昨日より何か進歩した部分を感じるのであれば、3年後には独自の表現を持った人物になっている。すでに3年間行っている人であれば実力者となっている。人間が成長するにはシナプスを太く多くする必要があるが、自立段階まで達するには少なくとも3年の時間を必要とする。3年間毎日集中して取り組むことを想像すると、はるか高い山のように見えてしまい気疲れを起こすが、天職・適職の場合は取り組んでいるだけで楽しいので気づけば3年経っている。つまり先のことは深く考えず、今日1日もその取り組みに多くの時間を割き、昨日より1歩前進していると、その積み重ねによる3年後の姿が見えてくる。

こういった意識レベルの違いを、職場の例で考えてみる。例えばアルバイトは社員よりも取り組む意識が低い。アルバイトは仕事そのものよりも小遣い稼ぎが主な目的なので、その仕事に割く時間は1日数時間となる。そして社員はアルバイトとは異なり1日のほとんどが仕事で占める。ただ多くの場合社員も生活費を稼ぐために働いており、また労働時間も会社が決定しているので自主的というわけではなく、天職・適職の人間からすれば取り組む意識は低い。そして会社の上司など社員より上の立場にある人物は、社員よりも取り組む意識が高いことが多い。よって集中力や観察力があるので社員が気づかない細かな部分にまで目が行き届く。そして上司より上の社長や創業者は天職、適職であることが多く、生活のすべてを仕事に捧げている。休憩中も帰宅後も休日も仕事について考え、休むことより働くことのほうが楽しい。こういったことは一例だが、当然アルバイトや社員の中にも天職の人間はいる。

また他にも、余暇の過ごし方や給料の使いを見ると、取り組む意識レベルのおおよそが見えてくる。天職・適職の場合は休日もそれについて考え、休んだとしても気分転換程度に休むが、天職でない場合は休日が生き甲斐のようになり、そこに交遊費のほとんどを注ぎ込む。よって飲み代など仕事と関係のないことにお金を使うことが多く、天職の場合はお金の大半を天職の為に使用する。

これらはあくまで一般的な傾向だが、現在の社会の仕組みでは天職・適職に出会う人は少なく、人間の本質からすれば取り組む意識は全体的に低いものとなっている。意識レベルが違うもの同士では、集中力も会話の内容も時間の使い方も異なるので同じグループで働くことは難しくなる。こういった意識レベルの差は、取り組んでいる事柄が自分に合っているのかどうかで生じるものなので、合っていなければ誰でも意識は低くなり、天職であれば自然と意識は高くなる。これらは現在の学校生活の中でも見られ、勉強ができる生徒と言うのは学校が決めた教科がその生徒にあっているというだけであって、テストの点が低い生徒は頭が悪いということではなく、その教科が本人には合っていないだけのこと。テストの点が悪い生徒の中にも美術だけは点数が良かったり、体育だけは良かったりと、生徒それぞれに適した得意科目がある。そしてこういった学校が決めた科目の中に得意科目がない生徒は、長い学校生活の中で劣等感や無能感を植え付けられ、非積極的な姿勢が習慣化される。

誰でも自分に合ったことをすれば意識が高くなり、その分野において秀でた才能を発揮することができる。人間は意識の高い状態の取り組みにおいてのみ質の高い結果を出すことができる。つまり自分の活動の結果を良いものにしたければ天職、適職に取り組む必要があり、多くの人の場合、趣味として取り組んでいる領域にそのヒントが隠れていることが多い。


継続、飽き、変化

好奇心に導かれて取り組んだ事柄が自分に適したものであれば自主的に取り組むようになり、2時間程度の時間はすぐに経つ。適していなければ指示や教えられるのを待つなど受身になる。現在では継続できないことは意思の弱さだと思われがちだが、誰でも興味のないことを継続することは難しい。興味ある異性に毎日電話はできても、そうでない異性には難しい。継続できなければ自分には適してなかったと思って次へ進めば良いだけで、好奇心から天職・適職の発見、そして継続へと続き、次に来るのは飽きとなる。

飽きるということも現在では良い意味でとられることは少ないが、継続すれば大抵のことは飽きる。飽きるまでの期間は人によって様々で、3日で飽きる人や一生続けても飽きない人もいる。人によって目的や極めたいことが異なるので飽きるまでの期間は変わってくるが、長期間継続して飽きた経験がある人に共通しているのは、飽きるというのはその事柄が嫌いになったわけではなく、たまに行うくらいで程良くなるということで、卒業の時期でもある。つまりその人にとっては充分に堪能したわけで、どんな名曲も毎日聞けば飽きてたまに聞く程度でよくなり、学生時代毎日続けた部活動も卒業後はたまに行う程度で程好くなり、どんな好物も毎日食べれば見るだけで嫌悪感を抱くようになる。また人間関係に飽きるという表現を使うと失礼にとられるが、誰でもある友人とよく遊ぶ時期が訪れ、そしてその時期は去り、次にまた違う友人と遊ぶ時期が来てまたそれが去る。しかしお互い嫌いになったわけではなく、久しぶりに会って話をする程度でお互いのことが分かり合えるような関係になる。人間は常に興味や求めるものが変化していくので、同じ場所に留まっていれば周りが変化してしまい取り残されてしまう。継続できないこと、飽きること、興味が変わることは自然な現象であって、固執せず、常に変化することを認識し、今は何に興味が向いているのかに集中して取り組むことが重要で、変化を認めることが良好な関係を長続きさせる秘訣となる。


プラウトヴィレッジの教育で大事な2つ

人間が人生で果たすべき内的な目的は、常に無心を維持し、苦しみの連鎖から抜け出すことというのが結論で、それを子供に教えることが重要な教育の一つとなる。無心は瞑想を通じてが教えやすい。

頭では無心の重要性が理解できても、実際に日々の行動で常に無心を意識的に維持できるかというと、習慣化されていなければ大人でも難しい。そこでもう一つの重要な教育として、好奇心と天職・適職を通じて取り組むことがあげられる。なぜなら自分が興味を持って取り組むので、集中力も高く没頭する。没頭している時間は無心になっているので瞑想状態にある。集中している時間が多くなれば、それだけ無心の時間が多くなるので精神が安定し、直感も増えて気づきも多くなり、精神面も向上していく。

また天職・適職に取り組む人は実力がつき、必ず結果が出てくる。そのレベルに達すると物事を成功・完成させるには、どのくらいの情熱で、どのくらいの集中力で、どのくらいの時間が必要で、どのくらいの練習量で、どのように計画すれば良いか、またどれほどの人の協力があったからそこまで到達できたのかなど、成功に必要な本質的な要素が見えてくる。これらの本質的な部分をつかんだ人物は、他の事柄に取り組んでも結果を出せる。つまり天職・適職に取り組むと実力がつき、物事の道理が見えてくる。

子供に必要な教育の議論で出てきやすい「これからは英語やコンピュータープログラミングが大事」など、取り組む事柄や業種など表面上の話ではなく、それらを成功させるのに必要な本質的な部分を理解したということになる。それが天職で達成される。英語やコンピュータープログラミングがその人の天職であればそれで良いが、全ての人間に異なった顔や人格があるように、全ての人に異なった天職・適職がある。その人に合ったことをしなければ何をしても結果はでず、苦しいだけとなる。

 

こういった実力の向上は天職や適職で達成できる。天職や適職はそれを行なっていることが自己表現であり喜びでもある。ただ天職の場合は人生をかけた使命感があり、見返りを求めず与えることに徹することができるが、適職は金銭などある程度何かの見返りを求める。それが2つの違いと言える。

プラウトヴィレッジでは、勉強ができなくても仕事がなくても誰も貧困に陥らず生きていける。そういった社会の教育で教えるべきことは、プラウトヴィレッジの運営・教育理念でもある次の2つとなる。

 

【人間の内面に向けて】
瞑想・好奇心・適職・天職を通じて無心になり、心の平安を達成し、自我・執着・苦しみを克服。

【人間の外面に向けて】
地球をプラウトヴィレッジで結び、全住民の過不足のない生活の保証、自然環境の保護、戦争・争い・競争・貨幣のない社会の維持。


プラウトヴィレッジでの教育の参考例

ここまで述べてきた直感と技術の考え方をもとにプラウトヴィレッジでの教育を行うが、その上で参考になる学校がある。アメリカのマサチューセッツ州のフラミンガムにあるサドベリー・バレー校で、4歳から19歳までの子どもたちを受け入れている学校。ここは学校というより家のようで、人がたくさんいてリラックスした態度で、さまざまな活動に従事している。ここでも一般的な基礎学力は学んでいるが、それは自分のペースで、自分の時間に、自分のやり方で行われる。
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この学校の特徴的な例は次のようなもの。

・この学校では、自分で学びたいことだけを自分で学んでいけるようにしている。
・誰でも学校で援助されさえすれば、自分の人生の中の希望の場所に行き着くため必要なものを見つけ出すとしている。
・学校はただ子供たちの意欲に応えるだけ。個々の子どもの諸活動の全責任はその子どもとともにある。自分の行為の結末は自分が引き受けるべきで、それが自己責任という感覚を養う。
・この学校の開設者たちが、子供たちが怯える対象とならないように気をつけている。
・必修科目の学習を、あらゆる水準において設定していない。
・この学校のクラスとは、学ぶ側と教える側の取り決めを指す言葉。数学、フランス語、物理学、スペリング、陶芸でもなんでもよく、子どもたちのうちの1人、あるいは何人かが何かを学びたいと思ったとき、クラスの結成が始まる。最初は自力でどう学んでいくか、自分達で方法を考える。それだけで済めばクラスは誕生せず、ただ学びがあるのみ。問題は子どもたちが自分達の力だけでは無理と判断したときで、その時、子どもたちは自分達が学びたいことを教えてくれる人を探す。手助けしてくれる人が見つかったらその人と協定を結び、クラスがスタートする。
・協定づくりにあたって、いつ生徒たちと会うか教師は約束する。固定した時間帯、柔軟性のある約束など自由に。途中、教師がこれ以上教えることはもう無理と判断したら身を引くこともできる。
・ある青年が物理学を学ぶため学校の大人と協定を結んだ。しかし教科書を読みだして5ヵ月後に一回質問に来ただけで、あとは自力で勉強してしまった。青年はやがて数学者となった。
・算数を学ぶ子供の例。子供たちに算数を学ぶ意欲が湧き、学校内で教えてくれる先生を見つけ、週2回、1回につき30分学ぶことになった。その算数の全教程を終えるのに24週(6か月)かかった。つまりふつうの学校なら6年かけて学ぶ内容を、半年で学んだ。
・クラスは場合によっては子どもたちが教師になることもある。
・子供たちは「お知らせ」を掲示して、その物事に興味がある人に呼びかけ、人が集まればクラスができたりもする。
・サドベリー・バレー校には毎日何時間もひたすら書き続けるライターや、ひたすら描き続ける絵描き、ろくろを回しつづける陶芸家、料理に熱中するシェフ、スポーツ一筋の運動選手、毎日4時間のトランペット演奏を欠かさない子供などもいる。
・絶対真似されることのない独自のテーマを追い求める生徒もいる。15歳の少年が葬儀屋になる夢のため生物学や化学などを一生懸命勉強し、16歳になるとこの学校での学習では満足できず、学校の大人たちは少年を地元の総合病院へ連れて行き、見習いとして腕を磨かした。そして1年経たないうちに医師の立ち合いの下、検死を任されるようになった。それから5年後、少年は念願の葬儀屋になり、間もなく葬儀店を開店した。
・サドベリー・バレー校では、本を読めない子どもたちに対する本読みの強制はいっさいない。大人がおだてたりご褒美で釣ることも全くない。しかし読書障害はゼロ。文盲のまま、あるいは満足に読み書きできない状態で卒業していった子は1人もいない。この学校では8歳、10歳、稀に12歳になってもまだ読み書きできない子もいる。しかしいつの間にか読み書きできるようになり、覚えるのが早かった子に追いついてしまう。
・この学校に小学生過程のリーディングの教科書は1冊もなく、1年生用、2年生用、3年生用の入門テキストもない。
・この学校では年齢別に分けず、子どもたちの自由にさせている。年下が年上に教えることも多々あるが、学びの技術、進み具合がバラバラなとき、子ども同士は助け合う。助け合わないとグループ全体として遅れてしまうからで、お互い競争したりいい点の取り合いをしていないので助け合いの精神が育つ。
・年齢ミックスは学習の面でもプラスがあり、説明の仕方は大人より子どもの方がシンプルで良い。教わる子が余計なプレッシャーを感じなくてすみ、大人に判断される煩わしさがない。また教えることによって自分のかけがえのなさ、達成感を味わうことができる。また教えることを通し、問題を整理して核心に一気に迫れるようになる。
・サドベリー・バレー校の年齢ミックスは、子どもたちの学ぶ力、教える力を飛躍的に引き上げている。
・キャンパスにある大きな23mのブナの木のてっぺんに12歳の男子が登ったが、それも注意せず子供の自由にさせる。他にも岩場や小川など見方によっては、どんなものでも危険な存在になり得る。本当の危険は、彼・彼女らの周りに規制の網を巡らすことによって生まれる。規制を突破することが逆に挑戦となってしまう。規制を破ることが至上命題になってしまうと、こんどは肝心の安全の確保の方がおろそかになる。そこで、この学校では成り行きに任せることにし、少々の危険は覚悟することにした。子どもたちは生まれつき自己防衛本能を持っており、自己を破壊するような真似はしない。
・サドベリー・バレー校で起きた事故のうち最も大きなものは、8歳の子が滑って転んで肩を打撲した転倒事故。
・危険に関して、池の畔(ほとり)だけには規制を設けている。池や沼は公共の危険で、水面を見ただけでは深さがどれくらいか分からない。溺れてしまったら最後。したがって全校集会の全員一致で立ち入りは全面禁止となった。ただ池にはフェンスは設けていない。
・サドベリー・バレー校の大人は子どもたちを誘導せず、グループ分けもせず、ほかの学校でやっているようないろんな手助けも一切しない。全て自分自身でするように言っている。これは大人が身を引いて自然に任せればいい、あとは何もしなくていいという放任論ではない。学校のスタッフ、親、その他のメンバーは、子どもたちの能力の自然な開花を妨害しないよう大いに心がけなければならない、ということ。子どもたちの発達の流れを違った方向に誘導したり、その前に障害物を構築したりしないよう全面的な自制が必要。